雨の雑

我思う、我とは何ぞや?

 デカルトは「我思う故に我あり」と言った。この言葉は我々の感覚に素直に一致する。我々は常にものごとを考えている。ならば考えている主体としての「我」は必ずどこかに存在するというのは、誰もが考えずとも感じていることだろう。なるほど確かに「私が考える」という言葉自体、私が存在しなければ成り立たない。
 しかし、待って欲しい。よく考えてみれば、そもそも私とは一体、何だろうか? どこまでが私なのか?
 以下ではこの考える主体としての「我」というものは物質・非物質は問わずに存在する、という前提から、「我」とは一体なんなのか、どこにあるのか、を探っていきたいと思う。
 まず、考えるのは、具体的な考える主体としての私である。即ちそれは、現代科学が証明するところによれば、感覚神経により入力を受け取り、処理し、運動神経に出力するという、神経の構造体、脳としての私に他ならない。なるほど例えば、何らかの理由で脳に損傷を負ったとき、人の人格は変化する。脳が変わることによって、「我」そのものが変わったと解釈できるから、脳が自己同一性に多大な影響を及ぼしているのは確かだろう。なるほど、この定義には科学的根拠がある。
 だが、よく考えてみれば、どの部分が「我」なのかについて言及していない。つまり、脳という物質が意識としての「我」を生み出すことに関わっていることは確かだが、具体的に、どこで、どのように「我」は生まれるのだろうか。
 わかりやすく、国という人の集合を大きな人間に見立てて考えてみる。国というものは人間と同じように、入力を受け取り、処理し、出力するという意識を持っていると考えることができる。ならば、この漠然とした国の意識、というものはなんだろうか。それはその国に属する人間を全員集めて会議室に閉じ込めてみたところで得られそうにないし、かといって一部の集団の意識を見たところで全体の意識とはほど遠い。実際に生活して、相互に複雑微妙に影響を与え合うことによってしか、国の意識というものは得られないのだ。
 同じことが人間にも言える。単純に言えば、神経細胞の複雑微妙な関わり合いが生んだ結果が意識である、といえよう。しかし、この関わり合いに登場するのは果たして神経細胞だけだろうか。
 確かに、具体的に考えるものとして神経細胞はわかりやすいが、それは社会でいえば、国会のようなもの、つまり、具体的に考え、決定することを代行していると捉えられないだろうか。実社会では、国会が国の運営に与える影響は大きいものの、それだけで国の意識が決まるかといえばそうではない。よって人間でも神経細胞だけでなく、体細胞も関わりあって「我」という意識が構成されていると考えられそうだ。即ち、「我」とは主に神経細胞や体細胞の関わり合いから生まれた、漠然とした行動や思考の流れと言えるだろう。
 そう考えてみると、人間の体は封建社会に近い。脳の命令は絶対で、逆らうことはできず、体細胞はときどき痛みや空腹などの窮状を訴えることくらいしかできない。しかし、だからといって酷使しては民衆は怒る。肝硬変、心筋梗塞、脳梗塞、癌。そういった自分の体の内部に端を発する病気は、体の脳への反逆なのかもしれない。

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