雨の雑

言葉と概念

 先日、手持無沙汰で電車に揺られ、なんとなしに僕はある広告を見ていた。それはJRによる長野県の宣伝であった。JRを使って長野県に行きませんか、ということである。その広告の中には各種とりどりの蕎麦の写真があった。見慣れたもの、何やら色がついているもの。同じ蕎麦とは思えないほど、バリエーションに富んでいる。
 それを見ているうちに、ふと、どうやって我々はそんな様々なものを蕎麦だと即座に認識することができるのか、と思った。ときどき耳にするこの疑問だが、深く考えてみると興味深い。
 たとえばプログラムでこういった識別を行おうとしたら、簡単に行える方法としては、条件をひたすら書いていくことだろう。しかし、実感として我々は物を識別するときに、いちいち「これは直径が七ミリ以上だから(あくまで例えである)、うどんだ」と考えたりはしない。それに、蕎麦かうどんかでは、きしめんを出された時に困ってしまう。また、太めの蕎麦をどう分類すればいいか困ってしまうだろう。
 どうもプログラムで考えてはらちが明かないようだ。では直接人間のケースを考えてみる。例えば、様々な種類の蕎麦・うどん・きしめんを全く何も知らない外国人に見せ、分類させてみたらどうだろうか。おそらく、日本人が決めた分類の仕方とは異なる分類をするだろう。それは日本人とは識別方法が異なっているということである。
 では、その後、蕎麦・うどん・きしめんを言葉で説明したらどうだろうか。おそらく、認識を改め、日本人と同じ識別方法を共有することになるだろう。では、識別方法、即ち、概念を規定するのは言葉だろうか。例えば、よくいわれることだが、兄弟とbrotherという概念は異なり、その違いは言葉によって生まれるように見える。
 しかし、僕はそれは短絡だと思う。例えば犬は言葉を使わないが、明らかに飼い主かそうでないか、人間か犬か、ということを見分ける。即ち、概念を持っているのだ。それに、人間の場合でも、同じ言葉だが文脈によって指し示す概念が違うことがしばしばある。また、同じ言葉・同じ文脈でも人によって感じ方は違う。
 以上のことを考えると、言葉が概念を規定するというよりは、むしろ概念が先行して存在し、そこに言葉があてられているとは考えられないだろうか。
 例えば、平均寿命が人間の千倍もある、日本語を理解する宇宙人がいたとしよう。その宇宙人にとって「一瞬」という単語は、同じ日本語でも我々から見れば決して一瞬のことではないだろう。しかし、その宇宙人にとってはその「一瞬」という単語の持つ概念は紛れもなく「ほんの少しの時間」のことであり、その概念自体は我々と共通する。
 つまり、概念というものが先にあり、そこに言葉というラベルが貼られているのではないだろうか。結局のところ、言葉の差異というのは、単に概念に貼られたラベルの貼り方の差異なのだ。
 ちなみに、二駅、乗り過ごした。

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