雨の雑

氷の記憶

 私は空を飛んでいる。
 文字通り空を飛んでいる。両手を広げて飛んでいる。体一つで飛んでいる。
 頭上には透き通った青い空。目下には雲の塊がいくつか、形を変えながらふわふわと浮かんでいる。地上は風に合わせて模様を変える草原が、どこまでも広がっているのが見える。
 飛ぶ速度は雲と同じくらい。適度に心地よい風が吹いて、気温は快適。羽ばたく必要はない。
 いつ頃からこうしていたのか、私にはわからない。つい先ほどからだったような気もするし、一日中こうしていた気もする。とても気持ちがよいので、もしかしたら一週間や一か月、もっと言えば一年このままだったような気もしてくる。
 そもそもいま何時だろうか。晴れ渡った青い空を見る限り、昼であると考えられるが、それはそういう設定でしかないので、本当の時間はわからない。更に言えば、この世界には時間などというものがあったかどうかすら自信を持って断言できない。ただ、こういう心地よい世界があって、私が居て、特に変わったこともない、ということだけしかわからない。
「こんにちは」
 いつの間にか私の隣には一人の女性が並んで飛んでいた。私が驚いて空中に静止すると、女性も私の少し前で止まった。ぱっちりと大きい瞳。筋の通った鼻。瓜実顔。顔立ちは整っているが、それもそういう設定でしかないので、そんなものはどうとでもなる。
 問題はどうやって侵入してきたのかだ。ここは私の世界だ。そして彼女は明らかに私とは違う人格である。私が彼女の存在を許可しただろうか、と私は首を傾げた。
(違法アクセス。ハッキング。クラッキング)
 危険な言葉が私の脳裏にちらつく。女性の頭上に「アクセスを拒否しますか?」という文字が現れた。
「あら、追い払う気ですか? 私はちょっとお話しがしたいだけですよ」
 女性は優しげな微笑みを浮かべたが、頭の中の警鐘はいまだ鳴り響く。ここは他人の侵入を許さないはずの世界だ。
 しかし、私はなぜこうも頑なに他人の侵入を拒んでいるのだろうか。何か重大な理由があったような気がするが、思い出すことはできない。そもそも、どのように、どうしてこの世界を創ったのか、その辺の重要な記憶が私の頭から欠落している。というよりほとんどの記憶がない。空を飛んでいるところから、今の私の記憶は始まっているのだ。
 ならば根拠もないのに、そこまで拒否することはないのではなかろうか。疑わしきは罰せずというではないか。いまだ不安が残るものの、私は彼女の頭の上に浮かぶ冷たい文字を消した。
 女性は自分が受け入れられたことを知ると、私に笑いかけてから空を見上げた。風に黒髪がなびく。
「平和な世界ですね。これがあなたの創った世界なのですか」
 女性はどこか不気味に笑ってから、私に向き直り、急に真顔になった。
「だけど、単調ですね」
 確かに、単調は単調だ。しかしこれがこの世界の設定なのだ。これが私の望みなのだ。
「見たところ、かなり作り込んでいるようですし、時間さえあればもっと面白い世界が作れると思いますよ。どうですか、私と世界を創りませんか」
「駄目なんです」
 やっと私は第一声を発した。これが自分の声か、と自分で少し驚く。
「いくら面白おかしい世界を創ったところで、それは単なる遊びでしかないのです。この世界は何一つ実在していやしない。単なる逃避なんです。現実でうまくいかないからって、我々人類は存在しないものを選んでしまったのです。それは絶対に賞賛すべきことではないし、現実から目を背けるべきではないのではありませんか」
 すらすらと私の口から言葉があふれ出てくる。間違いなくこれは私の持論である。しかし、どこから湧いて出てきたのかは相変わらず思い出せないのだった。
「あら、この世界だって同じではないのですか。それならもっと複雑で面白い世界の方がいいのでは……」
「だから私は私が嫌いなんです」
 絞り出すような声で私は女性の言葉を遮った。
「結局、偉そうなことを言っておいて、このざまですからね。私も逃げてしまっているんです。笑ってください」
 私は鼻から息を漏らした。そう、結局そこなのだ。人類に残された道はこの仮想世界しかないのが問題なのだ。だから私は逃げている。そう、そうなのだ。
 論理を進めることによって、だんだんと、どうして私がこの世界を私に与えたのかが理解できるようになってきた。
「でも、私はほかの世界の構築に協力しようとは思いません。これ以上、存在しない世界を創りたくはないのです。そう、だからこの呆けたような世界は、一種の隠居、安楽死……、それか自殺のようなものです。それが私の選択です」
 女性は悲しそうに目を伏せた。
「でも、あなたは見たことがないでしょう? 他の人が創った世界なんて……」
「しかし、想像ならできますよ」
 私にはありありと想像できた。現実とほとんど変わらず、一喜一憂し、喜怒哀楽し、時に愛し愛される人々が。しかし、それは全てまやかしでしかないのだ。本物はどこにもそんなものは存在しないのだ。
「いいえ」
 女性は悲しげにゆるゆると首を横に振った。
「きっと、あなたの想像より遙かに酷いと思います。見てみれば、あなたにもきっと彼ら彼女らを先導していく必要があることがわかります」
 そうなのだろうか。私には他人を先導していくような力が、資格があるのだろうか。
(ない、そんなものはお前にはない)
 心の奥底から声が聞こえる。
「とりあえず、まずは見て貰えませんか」
 女性は微笑んで私に手を差し伸べる。私は逡巡した。ただこの世界に引きこもっていただけの私に、他人を正すようなことはできるのだろうか、そしてそれは本当に正しいのだろうか。しかし、彼女の言うように正しい方向に導くことができるのだとしたら。
(できない、できっこない)
 それは一種の罪滅ぼしになるのではないだろうか。
(思い出せ、過去にそれでどうなったかを)
 そうだ、何の罪滅ぼしだというのだろうか。私は何を恐れているのだ。何の罪を犯したのだ。過去に何かあったような気がするが、思い出せない。
(思い出せ、思い出せ)
 彼女についていけば何か思い出せるだろうか。今までにない新しい展開を与えてくれるような気がする。
(危険だ。彼女は危ない)
 しかし、危険に飛び込まねばならない時もある。今がその時だ。少なくとも何かが変わる確信はある。
(何のためにこの世界が創られたのか、わかるだろう?)
 私は辺りを見回した。相変わらず草原と雲と空のほのぼのとした世界がそこには広がっている。
 ここは監獄だ。過去の私が今の私を監禁するための。しかし、監獄なら脱獄するべきだ。今こそ脱獄の時だ。
「わかりました」
 私はやっと差し伸べられた手を掴んだ。女性はそれを見て頷く。
「では、行きましょうか」
 途端に世界が暗転した。地面も、空も、雲も、草も、0と1の数字列に変わる。それから数字は吸い込まれるようにしてどこかへ飛んで行った。あるいは我々が飛んでいるのか。
 しばらくすると、彼方から別の数字が飛んできて、我々の周囲に拡散した。それらは次第に形を成していき、コンクリート打ち放しの薄暗い倉庫のような場所となった。
「ここはどこですか」
 周囲の壁面には金属製と思われる碁盤の目状に区切られたロッカーのようなものが置いてある。人間は、我々のほか誰もいない。何の為に創られたのか、よくわからない世界だ。
(帰れ、今すぐここを去れ)
 悪い予感がした。同時にここをとてもよく知っているような気もする。
「ここは管理室です」
 その言葉に私は凍りついた。単にアクセスが許可されていないはずの場所だったからではない。ここには私の恐怖する何かが存在する確実な予感がある。
「ここは……」
「そうです、ここにアクセスするのは違法です」
 こともなげに女性は言った。
「しかし、人々が創った世界を見るのに、これほど最適な場所はないでしょう?」
 ちょっと首を傾げてから、女性は壁際に並ぶロッカーのようなものに近づいた。
「では、まずはこの辺りから」
 そして女性はロッカーの一つの区画を開け放った。たちまちロッカーの中からは、うごめくピンクや紫の塊が飛び出し、部屋の中央に鎮座した。
 本能的に何か危険なにおいを感じる。これが世界だというのか。絶対にまともな神経で創られた世界ではなさそうだ。
「行きますよ」
 女性が屈み込んでそれに触れると、一気にサイケデリックな極彩色が私たちの周りに広がった。
 とめどなく色と形が変化する塊が次から次へと現れては消えてゆく。時にその塊は様々な動物の形になり、馬鹿にしたように空中で一回転してから去ってゆく。地面からは棘がいくつも生えていて、やはりそれも毒々しい色をしていて、ときどき同じ色の塊を空中に吐き出す。私は嘔吐したい気分に駆られたが、腹の中には何もないし、この体にはそのような機能は実装されていない。
「あれを見てください」
 いつの間にか、私の隣に女性が立って、上の方を指さしていた。女性の指さす先には人型の塊が浮かんでいる。肌には例の極彩色が渦巻いていて、一見、人間には見えない。しかしよく見ると、その塊は腹を抱えて笑い転げているようで、その仕草には一応、人間の欠片を感じた。
(狂ってる)
 ここは人間の来ていい場所ではない。これが人間の創りだした世界なのか。これが誰かの理想なのか。おぞましい。正気ではない。
「これじゃあ、まるで……」
 麻薬中毒じゃないか。
「そうです。狂ってるんです。それに、一人ではありません。あそこにも」
 見透かしたように言うと、今度は女性は地面の方を指さした。
 それはもはや言われなければ人とはわからないほど、原形を保っていなかった。辛うじてわかる程度に頭と胴体がわかれており、表面はつるつるしていて、目鼻などはない。胴体部分がアメーバのような伸縮運動をして、ゆっくりと移動している。
「もう、やめて下さい……」
 私は顔を覆ってうずくまった。
「もう大丈夫ですよ」
 私が顔を上げると、何も存在しない、真っ白な世界だった。遠くの方に誰かがぽつんと体育座りしている。
「これは……」
 砂漠のような世界だ。いや、むしろここに比べれば砂漠の方がまだ生き生きとしている。これも常人の神経ではない。
「彼には想像力が無かったんです」
 遠くの人影を見詰めて、女性は悲しげに言った。
「こんなに悲惨だったなんて……」
 私は呻いた。罪深いものを見てしまった。これを私に救えと言うのか。
(いや、本当に罪深いのはお前だ)
 そうだ。真に罪深いのは私だ。そうには違いないという確信がある。しかし、何が罪なのか。もう少しで思い出せそうな気はするが、上手くいかない。
「もう戻りましょうか」
 女性が手を振ると、あっという間に元の倉庫のような場所に戻った。
「わかって頂けたでしょうか。現状の悲惨さを」
 ゆっくりと女性は私に歩み寄ってくる。
「嫌というほどわかりました。しかし、私に彼らを正せるとは思えません。どう見ても、彼らは救いようのないほど手遅れにしか見えないのです」
 救えるものなら救いたい。だが、
(あの過ちを)
 以前にもこうして誤ってしまったのだ。
(忘れたのか)
 何の失敗だったか思い出せれば。
「そうですか……」
 女性は目を伏せてから、おや、という表情をした。
「あら、これはなんでしょう?」
 部屋の隅に金属製の箱があった。女性はそれに歩み寄ると、何のためらいもなく箱の上の方を掴んで開けた。すると、部屋の中央に何か透明なものが飛び出していった。
 それは、人間ほどの大きさの、氷の柱だ。
「何ですかこれは。初めて見ました」
 女性は呑気に氷に近寄っていく。
(帰れ。今すぐこの場を去れ)
 頭の中で激しく警鐘が鳴る。しかし、口の中がからからに乾いて、声が出ない。
(止めろ。あの女を止めろ)
 だけど、なぜ。あの氷は何なのだ。わからない。わからなければ、止められはしない。
 女性が氷に触れると、世界は暗転した。
(もう手遅れだ)
 私の不安をよそに、世界は再びわずかに明るくなり始める。
 明りの落とされた会議室。一番奥にはスクリーンがあり、何かが映されていて、その横で男がなにやら説明をしている。全員が男の話に聞き入っていて、部屋の中は水を打ったように静かだ。我々はスクリーンから一番離れた壁際に立っている。
「何かの記録らしいですね」
 女性が囁きかけてくる。確かに、もしこれが今行われていることだとしたら、我々が気づかれないのは不自然だ。
「というわけで、現在、人類は大変な苦境に陥っているのです」
 その声を聞いた瞬間、私の心拍数は跳ね上がった。この声には聴き覚えがある。
(あいつだ、あいつに違いない)
 暗がりに目をこらすと、男の風貌がだんだんはっきりと見えてきた。細長い顔。冷めた細い目。神経質そうな眼鏡。あいつだ。間違いない。
「資源の枯渇、環境の変動。それのみならず、人間自体の生殖機能が落ちている、という報告まであります。これは明らかな人間の退化であります」
 スクリーンに次々とグラフや図が映る。冷や汗が止まらない。
「このままでは、人類が絶滅してしまうのは時間の問題でしょう。そこで私が提案したいのが」
 男はそこで言葉を切って、効果を確かめるように辺りを見渡す。
「『人類保管計画』です」
 スクリーンに文字がでかでかと映し出される。会場がざわめいた。私は今やこの後の展開をありありと思い出すことができる。ああ、思い出さずにいれば。あるいはもっと早く思い出していればよかったのに。
「この計画では、一定数の人間を冷凍して、ある一定の場所に保管します。そして、人類が絶滅の危機に瀕したとき、これを解凍し、絶滅を防ぐのです。端的に言えば健康な肉体の貯金をするのです」
 おお、と感嘆の声が上がった。あちこちでまばらに拍手が起こり始める。
(戻れ。戻れ。戻れ。今が最後だ)
 心の中の警告は今や最高潮に達していた。
「そんな暴挙が許されると思っているのか!」
 突然、前で人影が立ち上がり、怒声が響き渡った。私の声だ。立ち上がったのは私だ。過去の私だ。
「一体、わずかばかりの人間を未来に延命させたところで、どれほどの価値があるというのだ。大体、冷凍される人々の人権はどうなるのだ。今、拍手した馬鹿者どもは全員、この仮想現実から消し去ってやる」
 女性が私の顔を見て口をぱくぱくさせている。私は何も答えない。否、何も答えられない。
「お言葉ですが、それこそ暴挙ではありませんか。少しでも長く生き延びたい、というのは人間として自然な欲求かと思いますが」
 男は細い目をますます細くした。
「いくら開発者とはいえ……」
 急に場が暗転した。
 再び明るくなると、そこは例の倉庫然とした場所だった。しかし、異様に寒い。
「違法アクセス者発見。違法アクセス者発見。凍結を開始します」
 無機質な声が響き渡ると同時に、冷気が下りてきた。発見されてしまったか。
「あなた、一体、何者なの」
 女性が私の腕をつかんだ。その手は氷のように冷たい。よく見ると小さな氷がいくつかその手についている。
「私は……」
 完全に思い出した。
(環境破壊)(資源枯渇)
 否、思い出してしまった。
(人類の危機)
 私が何者なのかを。
(仮想現実)
 何をしてしまったのかを。
(脳との接続)
 どのような罪を犯してしまったのかを。
(逃避)(逃避)(逃避)
「この仮想現実の開発者だ」
「ああ……」
 女性は何か言おうとして、そのまま固まってしまった。皮膚の表面には薄く氷が張っている。
 私の体温も、
 極限まで低くなっていき。
 意識が、
 遠のく……。

  *

 目の前には白い壁。右にも、左にも、背後にも。私は棺桶のような空間に横たわっている。
 私の体からは幾多のチューブが伸びている。現実だ。現実に戻ってきたのだ。
 あの女性はどうなってしまったのだろうか。私と同じように現実に戻ったのだろうか。ああ、それなら私にできることはもうない。私は現実では無力だ。変革の時は終わってしまったのだ。
(動け)
 しかし、あの狂った世界たちを野放しにしていいのだろうか。それでその基を作ってしまった私は許されるのだろうか。過去の私の判断は逃避だった。自分で呆けた楽園を作り上げて、逃げ込んでしまったのだ。しかしそれは成功しないどころか、何の解決にもならなかった。一番現実を見ていなかったのは自分だ。
 今の私には何ができるだろうか。過去の私と何が違うだろうか。
(破壊しろ)
 そうだ。私には破壊という選択肢がある。あのふざけた世界たちを破壊してやれば、否が応でも彼ら彼女らは現実に向き合うことになるだろう。よかれと思って作ったあのシステムが逃避の道になってしまったのだ。ならばその道を壊すしかない。
 しかし、どうやって。
(破壊しろ)
 違法アクセスをしてしまったことによって、私は仮想世界では目をつけられているだろう。だからあそこにのこのこ戻っていくわけにはいかない。ならば。
(破壊しろ)
 物理的に破壊するまでだ。そうだ、もともとこれは私が作ったシステムなのだ。私が壊して何が悪い。
 思い立ったがはやく、私は自分の体に繋がる幾多のチューブを一つずつ引き抜いた。
 それから、頭で頭上の壁に頭突きを食らわせると、あっけないほど簡単に私を閉じ込めていた蓋が開いた。
 するりとそこを抜け出すと、私は少し勾配がかかっている床に立ち上がった。
 周囲は円筒状になっていて、ひたすら私が入っていたような白い区画が壁際に並んでいる。上にも下にもはるかに続いていて、どちらもその先はかすんでいてよく見えない。私が今立っているのは円筒に沿った螺旋の回廊で、回廊同士の上下の間隔は私の背より少し高いくらい。左右の幅はあともう二人くらい通れるほどだ。異様な絶景である。同時に懐かしい光景でもある。
 この遙か下にサーバーはある。
(破壊しろ)
 私を突き動かすのは無意識の衝動。
(破壊しろ)
 飛び降りてしまったらどんなに速いだろうな、と想像しながら、私は走った。

  *

 どのくらい走っただろうか。私の足はもはや限界に近かった。しかし、私は走らねばならない。一番下につくまでは。
 突然、走る私の隣に、円筒状の物体が出現した。サーバーだ。あと少しでゴールだ。
(破壊しろ)
 急に平坦な床が現れた。勢い余って私はそのまま前に転倒してしまう。
「おや、これはこれは」
 男の声が倒れた私の上から降ってきた。この声はあの男だ。
 私は疲れた体に鞭打って、何とか立ち上り、例の男に向き直った。今、奴は白衣を着て、相変わらず細い目を細めてにやにやとしている。
「君は腑抜けた世界で遊びすぎて、気が違ってしまったものだとばかり思っていましたよ。戻ってくるとはどういう風の吹き回しでしょうね?」
「邪魔だ。そこをどけ」
 奴は微動だにしないどころか私を鼻で笑った。
「あなたのしたいことは大体わかります。ですが、それをさせるわけにはいきませんねえ。何せ大勢の生活が懸かっているのですから」
 私の中で怒りの炎が静かに燃え広がっていくのがわかる。
(破壊しろ)
 こいつは人類全員を気違いにして、使い物にならなくさせる気だ。そうに違いない。
「ふん、生活などしていない。それはまやかしだ。現実ではない。彼らの現実はとうの昔に私が奪ってしまった。これからそれを返すのだ」
 奴は「ほう」と挑戦的に呟いて顎をさすった。
「そもそも現実とはなんですか。物が存在していれば現実ですか? あなたはどうやって存在しているものと、感じてはいるものの存在しないものを区別するのですか。脳に入ってきた情報を区別できますか。区別できないなら、全部同じ現実でしょう?」
 嘘だ。まやかしだ。感じているものと存在しているものの区別ができないなど暴論だ。
(破壊しろ)
 少なくとも私は存在している。それが証明だ。
「そんな詭弁で騙されると思うなよ! 実際、お前も私も存在しているではないか。私の作り上げた仮想現実とは別の形でな。大体、大概は狂っているとはいえ、あの仮想現実を本物の現実だと思っている人がどれほどいるというのだ。ならばやはりそれはまやかしだ」
 私の反論にも奴は全く動じた様子を見せない。それどころか奴は不敵にも顔に微笑すら浮かべた。
「それはどうでしょうね」
 完全に馬鹿にされている。全身の血が頭に集まってくるのを感じた。
(破壊しろ)
 もはやこいつと言い争ってもらちが明かない。
(破壊しろ)(破壊しろ)
 ならばこの邪魔者は、
(破壊しろ)(破壊しろ)(破壊しろ)(破壊しろ)
 崇高なる理想のための犠牲者。
(破壊しろ)(破壊しろ)(破壊しろ)(破壊しろ)(破壊しろ)(破壊しろ)(破壊しろ)(破壊しろ)
 破壊すべし。
 私は獣のような雄叫びを上げて、奴に飛びかかった。
 奴は微動だにしない。私は奴を押し倒すと、そのまま馬乗りになった。
 柔らかい首筋に両手をあて、一気に力を込める。
 込める。
 奴の顔から血の気が引いてゆく。
 込める。
 幾許もしないうちに、奴の心拍が感じられなくなる。やったのだ。
「もういい、次だ」
 私は立ち上がり、本来の目的であるサーバーの破壊に移ろうとした。
「それはどうでしょうね」
 最初は幻聴だと思った。それしか選択肢がないはずだった。そうでないとおかしかった。
 恐る恐る下を向いてみるが、奴は青白い顔で無様に口を開いているばかりで、動き出す気配はなかった。
「こっちですよ」
 後ろだ。
 私が振り向くと、平然とした様子で、さっき私が殺した奴が立っていた。
「馬鹿な……」
 私は呆然と地面に膝をついた。片方の膝が、奴の死体のはずであるものに乗る。生々しい感触。これが死体でないというのか。
 それとも奴は死をも乗り越えたというのだろうか。
 クローンか。
 いや、ロボットか。
「違いますよ。どれも違います」
 にたあ、と奴は満面の笑みになる。
「これは現実じゃないのですよ」
 馬鹿な。私はちゃんとあの世界から抜け出して……。
「本当に抜け出したかどうかなど、どうやって確かめるのですか?」
 奴は一歩、また一歩と私に近づいてくる。こんな生々しい、現実のような仮想現実があり得るのか。
「あり得ますよ。根気よく作ればね」
 あの女性の言葉がよみがえる。「時間さえあればもっと面白い世界が創れますよ」
 だが、それでは現実はどこにあるのだ。
 どこにも現実はないというのだろうか。
「いいでしょう、そんなあなたに現実を見せてあげましょう」
 奴はもう私の目の前に到達していた。それから、私の前に手を突き出すと、軽く指を鳴らした。
「いい夢を」
 暗転。

  *
 
 ここはどこだろうか。
 狭い。また棺桶のような白い空間だ。
 しかし、先ほど違い、この空間には液体が満ちている。私の肺の中にも満ちている。しかし、苦しくはない。
 ああ、これが本物の現実か、と私は恐怖より先に安堵した。
 四方の壁を押してみるが、今度は動かない。現実は厳しい。
 急に液体が冷たくなってきた。
(『人類保管計画』)
 奴にとっては邪魔者の排除と同時に計画が実行できて、一石二鳥という奴だろう。
 こんなことになるのなら、狂人のままでよかった。私にはもはや後悔するくらいしか、選択肢は残っていない。
 しかし、これは本当に現実なのだろうか。奴自身が言っていたではないか。存在とただの感覚を区別することはできない。それならば、これが現実かどうかなど、誰にもわからないはずだ。
 だが、冷たい。
 どんなに否定したところで、その事実からは逃れようがない。
 現実は冷たい。
 どんなに抗おうと、
 段々と少しずつ、
 私の意識は、
 遠のいて、
 ゆく。

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