雨の雑

テリー・イーグルトン『文学とは何か』

 文学とは何か、という問いに限らず、○○とは何か、という質問は、時に恐ろしく難解で深遠な意味を持つことがある。人生とは何か、社会とは何か、命とは何か。そこで問題になっているどの概念にも共通しているのは、明らかに我々の内部にはそれぞれ概念が定められているにも関わらず、それを言葉にしようとした途端、急に詰まってしまう、ということである。それはつまり自分の中に言葉にできるほど整然とした概念がないか、それを一般化することが出来ないかの二通りであろう。
 本書はそんな微妙な存在である「文学」を近代文芸批評の歴史としてとらえた、文芸批評入門といってもよい一冊だ。この本を読めば、「新批評」「構造主義」「ポスト構造主義」「精神分析批評」と言われたら、だいたい何のことかイメージできるようになるだろう。おそらく人名にも詳しくなる。
 しかし、この本の素晴らしいところはそこだけにとどまらない。これだけ出てきた立場を、すべて文学全体を捉えるに至っていないと切り捨ててしまうのだ。これらすべてが「自分こそが文学を客観的に捉えている」と信じて疑わず、自身が必然的にしている価値判断に注意を払っていない、というのが本書の主張なのだ。
 わかりにくいと思うので、「文学とは何か」という最初の問いに立ち返って考えてみよう。さあ考えろ、といわれても難しいので、具体例を思い浮かべてみる。『吾輩は猫である』、これは文学だろう。『人間失格』、これも問題ない。では『古事記』はどうだろうか? 『純粋理性批判』は? 『方丈記』は? 『灼眼のシャナ』は? これらはいずれも文学といえばそう言えないこともないが、いつの時代も不変の文学かといえば、必ずしもそうではないだろう。では、これらのテクストと、確実に文学だと言われるテクストにはどんな差異があるだろうか。格調か? 歴史か? 形式か? どんな理屈をこねたにしろ、そこに働くのは人為的な選別というより他ない。ここからわかるのは、たとえ広告であろうと、どんなテクストにしろ価値判断によっては文学となり得るということだ。従って、どんなに主観を交えず批評を行ったとしても、その対象が文学である、と扱った時点で、そこにはある種の価値判断・主張が入り込むのだ。
 この主張には驚かされた。即ちこれは事実上、文学など存在しないという主張に等しいからである。なるほど確かにあるテクストだけ特別扱いするのはおかしい。特別扱いするならば、それなりの主義があり、主張があると考えるのが筋だろう。
 どんな批評もその主張を読め。そんな忘れがちだが当たり前のことを、本書は説いているのだ。そういう意味で、文学という迷宮に立ち入りたいのならば、その案内書、あるいは俯瞰図として、本書は有効である。また、純粋に読み物としても面白いので、ぜひご一読を。

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